聖書のみことば
2023年3月
  3月5日 3月12日 3月19日 3月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

3月12日主日礼拝音声

 聖餐の制定
2023年3月第2主日礼拝 3月12日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第14章22〜26節

<22節>一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」<23節>また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。<24節>そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。<25節>はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」<26節>一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

 ただ今、マルコによる福音書14章22節から26節までをご一緒にお聞きしました。ここには、今日私たちが聖餐式として憶える共同の食事の起源となった出来事が述べられています。今日は特に、主イエスの3つの言葉に思いを向けて、ここに述べられている事柄を受け止めたいと思います。

 まず22節に「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である』」とあります。「取りなさい。これはわたしの体である。わたし自身をあなたがたに与えよう」と主はおっしゃるのです。
 この直前の2節で主イエスは、「人の子は聖書に書いてあるとおりに、去ってゆく」とおっしゃって、御自身の十字架の死が近づいていることを教えられました。「聖書に書いてあるとおりに」と主イエスがおっしゃった時に、一体聖書のどこの箇所を思い浮かべながらこうおっしゃったのかは、主イエス御自身にお訊ねしないとはっきりしたことは言えません。けれども、多くの人がここではないかと考えている箇所の一つは、旧約聖書の詩編41編10節です。「わたしの信頼していた仲間 わたしのパンを食べる者が 威張ってわたしを足げにします」。主イエスが、弟子の一人が裏切ることを思ってこの言葉をおっしゃったと考えるのです。あるいはイザヤ書53章5節の言葉を思い浮かべる人もいます。「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。主イエスが実際に思い浮かべておられた言葉がどの箇所かを断言はできませんが、しかし間違いなく、「わたしは去ってゆく」とおっしゃっていますから、主イエスはこの時、確かに、御自身が十字架上にお亡くなりになり、弟子たちの間から去ってゆかれることをはっきりと意識しておられたのです。
 そのように弟子たちのもとを去って行かれる主イエスが、「あなたがたと共にいるようにする」と言って、御自身を弟子たち一人ひとりに差し出し、与えて下さいます。「取りなさい。これはわたしの体である」、「あなたは今、これを取りなさい。これはわたし自身である」と主イエスはおっしゃいます。
 「これはわたしの体である」とおっしゃって主イエスが差し出されたのは、主イエス御自身が引き裂いたパン切れでした。「これはわたしの体である。これはわたしなのだ」と言われて差し出されたのがパン切れであったので、素朴に受け取る人々は、パンの切れ端が即ち主イエスなのだと受け取りました。それで、パンがキリストの肉だと言う人たちや、あるいは、どうやってキリストの体がパンになり得るかということを真剣に議論する人たちが教会の最初の頃から現代に至るまで無数に現れていて、今日でも多くの書物を調べ考える人たちがいます。けれども主イエス御自身は、どうやって御自身がパンになるかと考えておられるのではありません。主イエスが考えておられることは、御自身が間もなく「十字架に架かり、弟子たちのもとから去って行く」ということです。一つのパンがこなごなに砕かれて差し出されることと、御自身の十字架の死を重ね合わせてこう語っておられるのです。
 今、弟子たちの前には、お一人の主イエスがテーブルマスターとして食卓に座っておられますが、もう間もなくすると、その主は捕らえられ、鞭打たれ、十字架に磔にされてお亡くなりになります。今は元気に食卓に座っておられますが、間もなく、信頼してきた弟子の一人に裏切られ、鞭打たれ、槍に貫かれて血潮を流し、打ち砕かれます。そういう御自身を、「引き裂かれたパン」に重ねて、弟子たちの前に差し出しておられるのです。

 聖餐式の時に、私たちは銘々がパンを受け取って頂きますが、その時に、毎日の食事と同じパンだと思ってお腹を満たそうとは思わないでしょう。皆が皆、全く同じことを思い浮かべるわけではないとしても、私たちは聖餐式のパンに与る時、それぞれに主イエスの十字架上の苦難や死を思い返し、肉が割かれ、血が流されたことを思いながらパンを頂き杯に与るのではないでしょうか。主イエスは、パンの塊やパン切れの中にいるとおっしゃったのではなくて、裂かれたパンによって表される十字架の死と、キリストが苦難と死を私たちに代わって引き受けてくださったことが憶えられる、そのところに「わたしもいるのだ」と教えて下さるのです。
 主イエスはもともと、神と等しい方でいらっしゃいます。しかしその尊さ、高さの中に留まろうとはなさらず、様々な問題に満ちたこの世に来て下さり、御自身を空しくして、私たちの中にまで降って下さいました。最初にあったパンが主イエスの手によって引き裂かれ粉々にされ、弟子たちに、わたしたちに与えられてすっかりなくなってしまう、そのような仕方で、しかし主イエスは鮮やかに御自身を私たちに示し、与えて下さるのです。
 「取りなさい。これはわたしだ。あなたがたもこのパンに与る者となって、わたしの体の一部となり、わたしと共にこの世界と隣人に仕えて生きるのだ」と、主イエスは聖餐のパンを通して教えられます。

 肉が裂かれる時、そこでは当然血も流されることになります。従って、裂かれた肉と血は別々のものではなく、もともとは十字架の主イエス・キリスト御自身を表しますが、主イエスはこの食事の時に、杯をお取りになり、更に豊かな約束を聞かせて下さいました。聖餐の中で分かたれる杯は、主イエスによってもたらされる「新たな契約」を表すしるしであるとおっしゃったのです。23節24節に「また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」とあります。主イエスのこの言葉も十字架の死の出来事が下敷きになっている言葉ですが、しかし主イエスは、ただ「この杯はわたしの血だ」とおっしゃるのではなく、十字架上に流される御自身の血が「契約のしるしとして流れる血なのだ」とおっしゃいました。
 私たちも聖餐に与るごとに、「これはわたしの血による新しい契約である」という主イエスの言葉を聞きながら、杯の中身を頂きます。しかしもしかすると、「主イエスの血による新しい契約とは一体何だろうか」と思いながら杯に与る方がおられるかも知れません。血が流されることで契約が交わされる確かなしるしとなるというのは古い時代のしきたりで、今日風に言えば、契約書にサインをしたり実印を押したりすることに例えることができるでしょう。もっともこの頃では押印を省略することが推奨されたりしますので、もう少し経つと重要な契約でも印鑑が押されない時代が来るかも知れません。それでも辛うじて今のところは、書面に印をつく習慣が残っています。血を流すことは、言うなれば書面に印判をつくようなことなのです。
 主イエスは十字架上で御自身の血が流れることを、新しい契約が確かに結ばれていることを表す調印のようにお考えになりました。新しい契約というのであれば、古い契約がある筈です。その古い契約が上手くゆかず望んだ形にならないので、神が新しい契約を結ぼうとなさったのです。
 ではもともとの古い契約とは、どのようなものだったのでしょうか。旧約聖書の出エジプト記24章6節から8節に「モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、『わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である』」とあります。はるか昔、モーセの時代に、一つの契約が神とその民イスラエルとの間に結ばれたことが述べられています。それは、神がイスラエルの民にお語りになったことすべてに、民が聞き従い、それを行い守っていくという約束の下に、神が民の後ろ楯となり守って下さるという契約でした。この契約が結ばれたことを確かにするためのしるしに動物の血が用いられ、半分は祭壇に、もう半分は契約を結んだ民に振りかけられました。
 ところが、このように約束したにも拘らず、イスラエルの民は、神の御言葉に聞き従って生活することができませんでした。古い契約は確かに結ばれたのですが、しかし動物の血が流され民に振りかけられたにも拘らず、人間の側の不誠実と契約の不履行によって、この最初の契約は、反故同然の紙くずのようなものになってしまいました。
 神が御自身に忠実な人間を御自身の民として守り支え持ち運ぶという約束に照らして考えますと、そのような神の保護や支えに価するような人間はどこにもいなくなってしまいました。それは、イスラエルの民だけではなく、私たち自身のことを振り返れば分かると思います。私たちは、平素は神のことなどすっかり忘れて自分中心の生活を送り、まるで自分自身が神であるかのように考えたり、自分の思いが実現することが一番良いと思ってしまいがちではないでしょうか。そうであるのに、何か思いがけない困難に直面したり、自分に近しい者が亡くなったり、自分の健康が損なわれ心細くなると、私たちは急に神に頼りたくなります。
 しかし古い契約では、人間が気ままに神の名を呼ぶ時、神が都合よく現れて人間を助けてくれるようなことにはなりません。もともと、「常に神さまに忠実に生きていきます」という約束のもとにある契約だからです。出エジプト記には、24章に記された契約に先立って、神が十戒の2枚の石の板をモーセに与えられたこと、そしてその後、神の民としてどのように生きていくかという契約の内容が20章から23章に記されています。24章で契約を結ぶ前にモーセが「契約の書を取り、民に読んで聞かせた」と言われていますが、それは20章から23章の言葉を語って聞かせたということだろうと思います。ですからイスラエルの民は、知らない言葉に従わなかったと言われているのではありません。自分たちに聞かされた言葉を「神の言葉」として聞き、「わたしはこれを信じ従っていきます」と言った約束を守らなかったのです。
 こういうことはイスラエルの民のことだけではないだろうと思います。私たちにしても、聖書の言葉を聞いて「これは良い言葉だ」と心に留めたとしても、それを実際に行なっていくということは、なかなかできません。
 ですから神は、古い契約とは違う別の新しい契約を、「主イエスの十字架」によって私たち人間との間に結んで、主イエス・キリストの十字架の出来事を土台にして「神と人間とが新しい交わりを生きるように」と招こうとしてくださったのです。

 今日の箇所で主イエスは、御自身の十字架を念頭に置きながらおっしゃいます。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」、つまり、十字架上に主イエスが血を流し死んで下さることは、「多くの人のためのこと」、もっと踏み込んで言えば、「すべての人間の罪の身代わりとして御自身を差し出してくださること」だと、主イエスはおっしゃいます。そして、「そのことを信じて杯に与るように」と言われるのです。
 キリスト者にとって聖餐の杯に与ることは、私たちの肉体を養うということとは違います。そうではなく、古のイスラエルの人々の上に犠牲の動物の血が振りかけられたのと同じようなことです。即ち、主イエス・キリストの犠牲の血が私たちの上に振りかけられていることによって、たとえ私たちの行いが完全でなくても、私たちは、「主イエスが私たちの身代わりとなって十字架に架かってくださり、神さまの民として生きることを許してくださった。神さまが支えて下さることを信じて生きる者となる」のです。杯に与ることは、私たち一人一人の中に、「この者は十字架の主のもの」という印判が押されるようなことなのです。

 主イエスは御自身が十字架にお架かりになる直前に、そのように弟子たちに教えられ、そして私たちの間に「決して過ぎ去らない主の確かなしるし」をお与えになりました。そして、その上でさらにひと言を加えられました。25節に「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」とあります。これは、主イエスが御自身の十字架の死をはっきりと、もう一度告げている言葉です。「わたしはもうこの地上で、ぶどうの実が作ったものを飲むことはない」、つまり、御自身の死のことをはっきりと教えておられるのです。
 主イエスはまもなく捕らえられ、十字架にかけられ打ち砕かれて死んでゆかれます。しかし、死は、主イエスだけの事柄ではありません。ここにいる私たちも例外なく全員が、いずれの時に間違いなく死を経験します。死は、実は私たちにとって当たり前すぎるほどに身近なことです。けれども私たちは、死ぬことをあまり真剣に考えません。死ぬことを日頃から真剣に考えないと、人は、実際に死が目前に迫った時に慌てふためかざるを得なくなります。そして、どうしたら死をやり過ごせるだろうかと思ったり、やり過ごせないと分かるとむやみに怒ったり、挙句には死をなるべく見ないようにしようとしたりします。けれども死の前にじたばたしながら、結局は時間切れとなって死んでいってしまうのです。科学や医療が死に対抗できるように思う人がいますが、しかし科学にしろ医療にしろ、結局は、この世の世界の事柄です。科学がどんなに進歩し、医療の技術がどんなに発展しても、死を乗りこえることはできません。
 死というのは、私たちのこの世の人生においては、私たちが今生きているこの世の領域を出て、別の領域へと移されてゆく入り口のようなものです。ですから死の問題は、この世であれこれ考えても答えは与えられないのです。死の問題は、私たちが生きているこの地上と、また私たちがいずれ移される別の世界、その二つの世界を共に支配しておられる方からしかお答えをいただけないような問題です。
 主イエスは、「はっきり言っておく」と、大切なことを弟子たちに教える時に使う言い方の癖をここでもなさっておられ、そのように言われることは殊の他重要な事柄ですが、そこで教えられたことは、「この世界とはまったく違う、神の国、神に直属するような領域に、あなたがたは移される」ということでした。「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」と、主は言われました。主イエスは、御自身の十字架の死をはっきりと告げ、「神の国で新たに飲むその日まで」と言われます。
 神を信じる人は、今生きているこの世界だけが唯一の領域だとは思わなくなる、「神の支配の下にある、神に直属するような領域があることを信じることができるようにされる」のです。しかしそれを信じることは、神の民とされ、神が私たちの後ろ盾としてどのような時にも共にいてくださることを信じて、初めて起こることです。ですから、神が主イエスの十字架によって私たち人間との間に結ぼうとしてくださった新しい契約を信じて生きることは、とても大切なことです。このことが私たちに、今のこの地上を越える将来を与え、私たちの地上の人生の長さを超える希望を与えることになるからです。

 そして、そのように私たちが神の領域に移され、天の国で生きるようになる時には、神によって保護され支えられて生かされている、その永遠の命の中で、支えて下さる神に感謝して、その御業をたたえ賛美して生きることになるに違いありません。そして、その天の領域の賛美は、今私たちがここで行なっている、地上の礼拝につながっていることです。私たちが天に繋がっているというよりも、天で行われる礼拝を私たちは知っているので、その礼拝を今、この地上でも捧げるようにされているのです。今私たちが捧げているこの礼拝が、天においては完全な形で捧げられています。

 私たちは今、この地上にありながら、神が与えてくださる永遠の命があり、永遠の平和があることを思い、感謝し賛美を捧げる生活へと招かれています。これは、私たちが、神が与えてくださる約束に与っていることをこの地上で現すことです。そしてまた私たちからすると、天で経験することになる真の礼拝の予行演習を行なっているようなものです。

 主イエスが、もともとは神と等しい方でありながら、私たちのもとに来てくださり、そして最後には私たちの間にすっかり姿を隠すまでに謙ってくださり、しかしそういう仕方で私たちと共に歩んで下さること、そのことを信じる者とされたいと願います。

 そして、共に歩んでくださる主イエスに慰めと勇気と力とを与えられながら、それぞれの生活の中で、主に従い、主を賛美して生きる生活を、さらに豊かに強められたいと願うのです。お祈りを捧げましょう。
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